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2010'11.23 (Tue)

『one years ago』

001


原案:微熱体温
執筆:寓話
挿絵:遠心力P
協力:あふぅP・ワタヌキ (敬称略)

【More】

*****


 三月の終わり、桜の花びらが桃色の風に姿を変えるころ、僕はこの街に引っ越してきた。

 成績も普通、体力も普通。どこにでもいそうな中学二年生。それまでの僕の興味といったら、
新しい中学でもトランペットを吹けるだろうか。くらいのものだった。
 転校初日。目に映るもの全てが珍しく、かと言って大した変化もないんだろうと思っていた、
そんな記念日に。
 ブロンドの髪をなびかせて現れた、彼女に会うまでは。

「あ、ねぇねぇ! そこのキミっ!」
「え?」

 僕?と、呆気に取られながら振り返る。校門の前で、中に入るのを躊躇っていた僕に頷くと、
彼女は僕の腕を掴んで、ぐいぐいと引っ張っていこうとする。その勢いに、僕はカバンを放り
出しそうになった。こんな積極的な女の子、僕は今まで見たことない。

「キミ、もしかして、ミキと逢ったこと、ない?」
「な、ない! 絶対ないと思う!」
「むー。ミキはそう思わないんだけど……。ミキ、カンちがいしちゃった?」
「僕は、今日転校してきたんだ。君に会うのは、初めてだと思う」

 テンコウセイ。自分のことを「ミキ」と呼んだ彼女は、口に出して、ぱっと顔を輝かせた。

「あはっ。それってすっごくラッキーなの! ミキが、教室につれてってあげる!」
「えええっ!? べ、別にいいよ!」
「いいのいいの。転校生を案内していた星井美希さんは、チコクしても許されるって思うな!」

 合点がいった。彼女は――星井は、いわゆる「困ったちゃん」な生徒で、運のわるい僕は、
彼女に目を付けられた挙げ句、このまま校舎に拉致されてしまう、らしい。

「キミ、二年? 三年? ミキは二年だよ!」
「ああ。僕も、同じ――」

 “ミキは二年だよ!”

 ……あれ?

 急に懐かしさを覚えた僕は、後に続ける言葉を忘れてしまった。どうしたの?と首を傾げる
星井を前に、僕は、名乗りの必要性について、たっぷり三秒ほど考え込んでしまった。

「えっ、と……星井さん。もしかして、僕と逢ったこと、ない?」

 僕の疑問に、星井は一瞬きょとんとしてから、プーッと吹きだした。気にしないでいいよ、
ミキのカンちがいだから。と言って、さっさと先を行ってしまう。

 そっか、そうだよな。僕は曖昧に頷く。カンちがいしてごめんね、と、星井も謝った。

「きっと、似た人だったんだと思うな。ミキ、その人と間違えちゃったんだよ」
「僕も、そう思う」
「あはっ。ヘンな人! ミキのカンちがい、信じてくれるの?」
「信じるよ。――始業式までに、教室に案内してくれれば」

 うあっ!?と、星井は奇妙な声をあげた。時計の針は、そろそろ九時を回ろうとしている。
学校への道に迷って遅刻してしまった僕と、自称・布団が気持ち良くて寝坊してきた星井は、
肩をならべて、一目散に駆けだした。

 僕と星井の出会いは、そういう形で接点をむかえた。


*****


 転校した先でも、僕は迷うことなく吹奏楽部に入った。楽器ケースと共に、教室と音楽室を
往来することが、僕の放課後の日課に加わった。

 同じクラスだった星井は、クラスの中でも、ひときわ目を引く女子だった。持って生まれた
才能を武器につっぱしる、スターのような女の子。実際、星井は芸能事務所に所属していて、
つい先日アイドルデビューしたのだ、という話を聞いた。

 “逢ったこと、ない?”

 星井と僕のデジャブは、転校初日の一度きりで終わった。会話を交わすたび、僕らはお互い、
知らないことがたくさんあると解ったし、僕と星井の距離は、地球と火星くらい遠かった。

 僕は、歌をあまり聴かないのだ。邦楽にうとい僕は、星井を取り巻くクラスメイトの輪には
なかなか入れず、親しみのあるクラシック音楽とばかり向き合っていた。

 そんな僕に、ある日、星井の興味が向けられることがあった。

「キミは、歌の無い音楽が好きなの?」

 放課後の教室で、クラシックのCDを手にしていた僕に、物珍しそうな視線が向けられる。
そうだよ。と僕は星井に答え、思いついたようにつけ足した。

「星井は、こういう音楽は苦手そうだな」

 誰もが目を引くルックスと並び、いねむり常習犯でも有名な星井だった。クラシックなんて
聴いたら、ものの数分で眠りに落ちるんじゃないだろうか。星井は、うーんと首を傾げてから、
秘密を告げる子供のような目で、僕に明かした。

「あのね。事務所の先輩が好きなの。ミキよりずっと有名なアイドルなんだよ」
「ああ、そうなのか」

 星井の話すトーンが明るくなった。おそらく、その人を慕っているんだろう。

「僕も、聴いてみようかな」
「うん! 千早さんの歌、すっごく上手なの! きっとソンケーしちゃうって思うな!」
「星井はどうなんだ? 有名じゃないのか?」
「うーん。ミキは、まだ半人前なの」

 クラシックの拷問に耐えられなければ、トップアイドルへの道は遠いの。という自論を出し、
星井はうなった。論理は滅茶苦茶だったけど、「音楽の引き出しが足りない」ということなら、
僕にも少し解る気がした。

 手元の携帯がアラームを鳴らす。部活の時間だ。僕は席を立ち、じゃあな、と声を掛ける。

「それも、クラシック?」
「ん?――ああ。洋画に使われた歌だよ。知ってる?」
「うん! ミキ、その曲は知ってるよ!」

 映画のテーマソングが、バンドアレンジされることは良くある。僕はこの音楽が好きだった。
僕が映画の主演女優を口にすると、星井は目をキラキラさせて語った。

「ミキ聞いたことある! 王女様と新聞記者さんの、ステキな恋のお話なの!」
「……『ローマの休日』か?」
「ちがうの?」
「うん。ちょっと違う」

 『ティファニーで朝食を』で歌った曲だよ。と訂正すると、星井はちょっと凹んでしまった。

「クラシックって、難しいんだね。ミキ、やっぱり仲良くなれないかも」

 僕はその返事に慌てて、彼女とオードリーを繋げるべく、咄嗟に浮かんだ案を提唱する。

「気にいったのなら、着メロにすれば?」
「あ、うん! そうだね、そうする!」
「CD貸してもいいけど。星井は、全部聴く前に、眠っちゃいそうだからな」
「むー。キミ、いい人なのかイジワルなのか、良くわかんないの」
「ダウンロードするのに、曲名は解る?」
「ううん。教えてくれる?」

 もちろん。と僕は応じた。僕が知っている事柄で、星井と繋がれるのは素直に嬉しかった。
なめらかな操作で携帯の設定を終えた星井は、とても満足そうな表情になった。

「ミキ、もうクラシックはバッチリってカンジ! ありがとなの!」
「ああ。どういたしまして」
「千早さんに教えてあげるの! ミキが好きな音楽だもん、きっと好きだと思う!」

 邦楽にうとい僕と、クラシック音楽にうとい星井。
 僕と星井の間にある音楽の共通点といえば、この曲くらいのものだった。


*****


 夏のはじめ、僕には好きな子ができた。同級生の、同じ部活の女の子。背筋をぴんと伸ばし、
くり返し丹念にフルートを練習する、大人しくて真面目な子だ。

 髪を切りワックスをつけ、新品の靴を履き、シャツの前ボタンを開けて登校した僕を見ると、
星井はすぐに「好きな人でも、できたの?」と、核をついてきた。

 仕事で学校を休むようになった割に、そういう所には、やたらカンの鋭い奴なんだ、星井は。

「好きな子、いるんでしょ。あはっ。わっかりやすーい♪」
「へ、変かな。それとも、そんなに解りやすいのか?」
「ううん。でも、ちょっと、雰囲気変わったかも?」

 誰だって、好きな人にはイチバンに見て欲しいって思うし!なんて、知った風なことを言う。

「ね、どんな人? ミキが知ってる女の子?」
「普通の子だよ」
「ミキよりフツーの女の子で、ミキよりフツーじゃない女の子なんだね。トクベツってカンジ!」

 星井は本当に、一発で核をついてくる。

「そうだな。遅刻もしないし、寝坊もしないし。なかなか特別なんじゃないかな」
「ねぇねぇ、ミキは? ミキはトクベツじゃないの?」
「星井は、もう充分特別な女の子だろ。だって、アイドルなんだから」

 僕が応えると、星井は「むー」とふてくされてしまった。アイドルらしからぬ、渋い顔で。

「ミキは確かにアイドルだけど、ミキだってフツーの女の子だもん」
「星井が普通レベルになったら、周りの女の子は全部かすんじゃうよ」
「あはっ。それって、ホメてくれてるの?」
「星井が凄いことをしているのは、僕だって一応わかる」
「ありがとなの。キミ、いい人なんだね」

 機嫌が直ったのか、星井は僕の好きな子の話をしきりに聞きたがった。そして、今すぐでも
彼女に告白しに行こうと促してきたのだけれど、慌てた僕は、必死に首を横に振った。

002

「ぼ、僕は星井みたいに、勇気がある奴じゃないんだ。
 校舎の前で、いきなり『逢ったことない?』――とか、ナンパはできない」
「ふーん。カンちがいってことに、しちゃえばいいのに」

 星井は一度「スキ!」と決めたら、それに向かって一直線になるタイプらしい。僕は星井を
引きとめるのに必死で、星井は、勇気のない僕を少しもどかしく思っているみたいだった。

「僕も星井の恋は邪魔しないからさ。星井も頼むよ」

 しぶしぶといった感じで引き下がった星井に、僕はホッと胸を撫で下ろした。そして星井が、
まだ好きな人がいない様子に、すこし意外性を感じていた。星井はアイドルだから、同学年の
生徒なんて、興味も無いのかもしれない。僕はそう思うことにした。



 僕はフルートの彼女が好きだったけれど、彼女は部内の男子にも人気があった。部活の後に
カラオケに行こう、と盛り上がっていた輪に、僕は入ることができなかった。

 折角のチャンスをみすみす潰した僕に、星井の呆れた叱責が飛ぶ。どうやら、相当期待して
いたらしくて、事務所の中でも、そういう話題が好きな仕事仲間と、盛り上がっていたらしい。

「ミキ、応援してたのに。どうしていっしょに行かなかったの?」

 星井の目はまっすぐすぎて、僕には眩しすぎた。もし僕が星井くらい勇気のある奴だったら、
有無を言わずに突撃しただろう。だけど僕には、それが出来なかった。

「僕は音痴なんだ」
「え?」
「楽器は吹けても、歌はとても下手くそなんだよ」

 僕が行かなかった理由を察し、星井はちょっと申し訳なさそうな表情になった。

「そっか。……ごめんね? ミキ、全然知らなかったの」
「星井が気にすることじゃないさ」
「せっかくのチャンス、もったいなかったね」
「一度転んだくらいで諦めてたら、恋なんて一生出来ないよ」

 僕はそう言ったけど、実際のところは虚勢に過ぎなかった。チャンスが潰れたのは事実だし、
僕の音痴にも変わりはなかったからだ。すっかり自信を喪失していた僕に、星井はパッと顔を
輝かせて応じる。

「そうだよね! ミキ応援する! だから、ミキの歌聴いて、元気出して欲しいな!」
「星井の歌?」
「うん! きっと元気になれると思うの!」

 あまり学校に来なくなった星井が、新曲を出したのはその一月後。僕は星井のCDを買った。
クラシックばかりが並んだ、僕の音楽リストに混ざった星井の新曲は、無機質なビル群の中に
一軒だけ並ぶ、花屋みたいだった。僕は目を閉じ、星井の歌声に耳を傾ける。

 とっておきの恋バナとやらを、聞かせてくれるそうだ。


*****


 結論から言うと、僕の恋は二ヶ月で失恋を迎えた。

 秋になるころ、彼女は僕より一つ上の、クラリネットの先輩と通学するようになった。僕は
彼の堂々とした歌声を羨み、いまひとつパッとしない、金色の楽器をにらんだ。僕も音痴だし、
こいつも音痴なんだ。誰かの心に届くような歌なんて、きっと、一生歌えない。

 珍しく学校に顔を出した星井に、敗戦報告をした僕は、楽器ケースを抱えたまま落ち込んだ。

「今日ばかりは、音楽が嫌いになったよ。……星井は、そういうこと無いのか?」

 僕が尋ねると、星井は、突然英語の問題を指名されたような顔をした。部活をサボった僕と、
六時間目にしか登校できなかった星井。放課後の教室は、夕暮れ色に染まりはじめていた。

「ミキ、ホンキの恋愛ってしたことないし。誰かを好きになったこと、ないの」
「そうか」
「あはっ。でも、恋愛の歌ばっかり、歌ってるんだよ。おかしいでしょ?」

 おかしくは無いよ。そう僕は言った。僕だって音痴なのに、楽器を吹いてる。それはつまり、
音楽が好きなことの裏返しだ。僕はまだ、音楽と離れたくないのだ。

「気持ちが届かなくたって、好きになるのは個人の自由だと思うし……」
「ミキもそう思うの。だから、あの子のことも、好きなままでもいいんじゃない?」

 僕は思わず言葉をなくした。星井は屈託ない顔をして、僕にひとつ笑いかける。

「好きな気持ち、ムリヤリ忘れようとするのは、さびしいって思うな」

 星井の言うとおりだった。僕はまだ、あの子のことも音楽のことも、嫌いにはなれなかった。
気持ちが届かなかったことに落胆こそしたけど、一度は好きになった気持ちまで否定するのは、
なんだか悲しかった。星井はそんな僕の気持ちを見透かしたように、嘘をつくのは良くないと
視線で語っていた。

 僕は星井の意見を素直に受け止めた。まだ恋に未練を感じていたとか、そういう訳じゃない。
行き場を失って捨てようとしていた僕の気持ちを、拾って貰えたことが嬉しかったからだ。

「恋愛に関しては、なんだか、星井の方が先輩みたいだな」
「んー、そっかな?」

 僕は頷いた。失恋後の僕が何日も凹んでいた間、星井はファン相手に毎日笑顔を振りまいて、
どんなに疲れたり、嫌なことがあったりしても、ニコニコして恋の歌を届けていた。

「星井はすごいよな。僕にはできないことばかりやってる」
「ミキの歌で、みんな、元気になれてるの?」
「なれてるよ。勿論だ。星井の歌はすごいと思う」
「そっか。そうだったら、いいな。ミキ、よくわかんないけど……」

 ――不安になるの。 

 ぽつりと漏らした言葉に、僕はすぐに反応できなかった。星井は茜色になったグラウンドを
眺めている。仕事のこと、学校のこと、未来のこと。一瞬で様々な理由が僕の脳裏をめぐり、
それとは異なる答えが、星井から放られる。

「ミキね、ときどき不安になるの。ミキの声は誰にも届かないんじゃないかな、って」
「あれだけ有名になっても?」
「ミキは、ミキだもん。なにも変わってないよ?」

 有名になればなるほど、星井は強い孤独を感じているみたいだった。
 いつもの明るい星井はそこに居なくて、それが僕を少なからず不安にさせた。

「そうだな。星井は何も変わってないと思う。変わってるのは、きっと、星井の周りの方だ」

 星井は黙っている。放課後の教室の中に、二人分の沈黙が流れた。
 ……何故だろう。僕は、この光景でさえ、見覚えがあるような気がしたんだ。

「ミキ、ずっとずっと一人ぼっちな気がするの。恋をしてもね、その先が見えてこないの。
 お別れするのが不安、とかじゃなくて。ミキはね、ミキはやっぱり、みんなとは違って……」
「星井?」
「……あ、あれ?……ミキ、何いってるんだろ?……ごめんね?」

 泣きだした星井を前に、僕は大きく動揺した。僕は星井の問いに頷くばかりだったけれど、
それは星井の不安も肯定してしまったのだろうか。僕は、持っていたハンドタオルを差し出す
しかできなかった。
 通学すら稀になっていた星井は、周囲の大きな変化に、戸惑いを覚えているのかもしれない。

「星井の歌、僕には届いてるよ。一人ぼっちってことは、無いんじゃないかな」
「そうかな。……そうだと、いいな」
「着メロも取ってあるしね」
「あはっ。ミキも変えてないよ? また、千早さんにホメられたら、教えてあげるね?」

 星井は、事務所の先輩と、クラシックの話題で一緒になれたことが嬉しかったようだ。僕は
力添えをした覚えはないのだけれど、音楽のことで、ときどきメールのやり取りをしていた。

 僕と星井をつなぐ着メロは、あの時から変わっていない。でも、僕と星井の距離は、地球と
火星から、地球と冥王星くらいまで離れてしまっていた。星井との繋がりを失いたくなくて、
僕は星井に言葉を掛ける。

「なにかあったら、またメールしてこいよ」
「うん。ありがとなの」

 それだけが、僕と星井の間を繋ぐ、細い細い連絡線だった。


*****


 十一月、文化祭を終えた僕ら吹奏楽部員は、つかの間の休息を過ごしていた。

 大きな舞台が一段落し、自主練に顔を出す人影もまばらになった音楽室で、いつものように
トランペットを構える。星井のことを考えるとき、僕は自然とあの譜面をさらっていた。

 あの日、星井がぽつりと漏らした不安の正体は、僕にはわからない。星井の不安とは裏腹に、
アイドル「星井美希」が歌う新曲は、瞬く間に世間のヒットチャートを席巻していた。
 本当の恋を知らない、中学生の星井と、恋愛の歌を歌う、アイドル星井美希。皮肉なもんだ。
それでも世間は、星井美希にすっかり夢中になっている。一生叶わない、片思いみたいに。

 星井はもう、数えるほどしか学校に来ていない。周りのクラスメイトは星井を気づかって、
努めて平静に振る舞っているけど、それを快く思わない連中だっている。僕は、それこそが、
星井の感じる不安なんじゃないかと思っていた。カンの鋭い星井が、周囲の心境のさざ波に、
気づかないはずがないんだ。

 でも、不安の理由は本当にそれだけか?と問われると、僕は素直に頷けない。僕の思考は、
壁にぶつかって止まる。指と息が行き場をなくし、譜面はそこで途切れた。
 僕がこの曲を演奏するのは、心のどこかで、僕と星井の間の壁を取っ払いたかったからだ。
この曲を吹くことで、僕はアイドルを演じる星井を応援してやりたかった。そしてそれ以上に、
壁の向こう側が見えない僕自身の不安を、消したかったんだ。

「……ただの自己満足、かもな」

 だめだ。今日はちっとも集中できない。星井のせいだぞ。いない相手に向けて軽口を叩き、
気を紛らわせる。ここに本人がいたら、すごく不機嫌な顔で拗ねるんだろうけど。
 帰り仕度をはじめながら、僕は携帯を確認する。すると、そこには見覚えのないアイコンが
表示されていた。首を傾げながら、カレンダー型の小さなアイコンをクリックすると、画面に
パッとメッセージが表示された。

『来週は、星井美希さんの誕生日です☆ミ』

 僕は呆気に取られた。僕の携帯に、こんな仕掛けを施しそうな相手は、一人しか浮かばない。

「……ったく。何考えてんだ、星井の奴」

 文句を吐いて携帯をしまう。頬のあたりがくすぐったくなった理由は、解らない。

 早く帰るつもりだった予定を変更して、僕は駅前を目指した。普段なら通りすぎるような、
女の子向けのアクセサリーショップに入り、目に留まったピアスを購入した。星がモチーフの
ピアスだ。アクセサリーの良し悪しなんて、僕にはわからなかったけれど、星井に絶対似合い
そうだと思った。
 なけなしの貯金を叩いたせいで、僕の財政事情は一気に北極点レベルに到達した。それでも
僕は、ちっとも後悔なんかしていなかったし、どこか嬉しい気分だった。

 僕は星井に何をしてやれるんだろう、と言う考えが、全くなかったわけじゃない。なぜなら
星井は、必ず僕の節目節目で、僕のそばにいたからだ。転校した初日。自分の位置に居場所が
無かったあの頃。同級生相手の小さな恋。そして何もアクションを示せず敗戦を知ったあの日。
星井から不安を打ち明けられた放課後。
 そんな節目に、いつだって星井はいた。まるで、こうなることを、知っていたかのように。

『逢ったこと、ない?』

 ――まさか、そんな。

 僕は強く否定する。あれは二人のカン違いなんだ。確かに僕は星井のことを知らなかったし、
星井だって僕のことを知らなかった。お互い見知らぬ同士が、なぜか不思議な既視感を抱いた。
それだけのことなんだと、僕らは結論付けたじゃないか。

 ――じゃあ、なんだ?

 手元には、可愛く女の子向けにラッピングされたプレゼント。僕は、ならば、何のために?
星井の喜ぶ顔が見たいから?馬鹿言ってんじゃない、星井には、誕生日のプレゼントなんか、
全国から山ほど届いているだろう。中にはとんでもないものを贈ってるファンだっているかも
しれない。

「……どうしたいんだよ、僕は」

 意味のない問いを口の中でもごもごさせながら、僕はプレゼントを制服のポケットにしまう。
これは、星井本人に渡せなければ意味が無いことを、静かに決心する。行動を起こせなければ、
結果は産まれない。――成功も、失敗も。
 ゆるゆると時間だけが流れて、自分の都合の良いように転ぶなんて考えたらダメなんだって、
僕に教えてくれたのは星井だ。だからこれは、星井の事務所に送っても意味がないんだ。僕が
直接、星井に渡さなきゃいけないんだ。

 僕は携帯を開き、新規メールを作成する。

『Sub:こらぁ!』

『勝手に僕の携帯をいじったな!
 おかげで星井の誕生日を忘れずにすんだよ。
 プレゼントを用意した。いつか学校に来たら渡すよ』

 ボタンを打ちこむ指が、少し震えた。星井は、これを読んでどう思うだろうか。もしかして、
気持ち悪いと思われるんじゃないか。僕が星井の立場だったら、そう考えたりしないだろうか。
 不安に潰されそうになりつつ、僕は意を決し送信ボタンを押した。何事もなかったように、
メールは電波に乗って、ネットワークに運ばれる。見えない言葉が、わからない仕組みの上で、
星井の元へと飛んで行った。

 星井からの返信はなかった。僕は、いつ星井が学校に来ても良いようにと、鞄の中に大事に
プレゼントをしまいこんだ。


*****


 星井にメールを送ってから、三日が経った。
 いつものように部活動を終えて、帰宅しようとしていた僕は、正門に横付けされてくる車を
見かけた。助手席から、生徒が勢いよく飛び出す。それは星井だった。校舎に向かって一気に
駆け出した星井に、僕は反射的に声をかけてしまう。

「お、おい! 星井っ!?」

 下校中の生徒や、グラウンドで部活中の生徒の視線が、僕に、そして急に呼び止められて、
ぽかんとした顔の星井へと向けられる。僕はその全てを無視して歩み寄り、星井に尋ねた。

「もう六限も終わってるだろ? なんで、制服着てるんだ?」
「……だって。学校行かなきゃ、って思ったから」

 なるほど、と僕は一言で返事をして、笑う。星井がこんな時間になって学校に来る理由は、
どこにもない。その原因を作ったのは、僕だ。やがて、星井が両手を差し出した。

「プレゼント……くれるんだよね?」

 僕は頷くと、鞄の中にしまい込んだプレゼントを、まるで不発弾のようにそっと拾いあげて、
星井の両手に重ねた。

「全財産を叩いた。僕の限界だ」

 今更カッコつけてもしょうがなかった。苦笑いで僕が告げると、星井は柔らかく笑った。

 僕と星井が対面していたそのとき、ずっと掛かりっぱなしだった車のエンジンが止まって、
運転席から誰かが降りてくる気配を感じた。

「おい、美希。あんまり時間は取れないって――」

 星井に向かって「美希」と呼びかける背の高い男と、そちらを振り向いた僕の視線が合った。
その瞬間、男の顔色が一瞬で変わったのを、僕は目撃した。

「な……何が……どうなってやがる……!?」

 その男の、口元を歪めて呟く声が、僕の耳には届いてしまった。僕はその毛色の異なる声に、
思わず身体を硬直させてしまう。憤怒と言うよりは、強い困惑を含んだ驚きだった。

「ねぇねぇ、開けてもいい?」

 無邪気に微笑む星井と、混乱の極みみたいな顔の男の対比に、僕は、どちらのテンションに
合わせれば良いのか、咄嗟に判断できなかった。

「あ、いや……。さすがに、ここで開けられると、少し恥ずかしい」
「そうなんだ。じゃあ、後にするね」

 ……ああ、僕はまた失敗した。
 こんなだから、僕の気持ちは、いつまで経っても、想定線の向こう側に辿り着かないのに。

「それじゃ、ミキ、もう行くね」
「ああ。元気でな」

 星井が、早足で僕の目の前を通りすぎる。それまで意識したことのない香りが、僕を包んだ。
車の助手席に乗り込むまで、星井と僕はずっと、何も言わずに目線だけを合わせていた。

『また、学校来いよ』

 その一言が、どうしても言えなかった。僕の奥歯は、石臼みたいに言葉を挽き潰していた。

「なぁ、きみ」
「……なんでしょうか?」

 ぶっきらぼうに応じる理由も無かったのだけど、男の態度は不遜なものに見えて、僕は彼が
気に入らなかった。明らかに僕に何かを言いたそうで、けれど言い出せない、踏ん切りが付か
ない様子で、男は言葉を噛み殺している。
 そのもどかしい仕草が、今の僕自身を彷彿とさせて、それもまた僕は気に入らなかった。

「今は、まだ告げられない。……だが、きみには、言わなければいけないことがあるんだ」

 どういう事だ?僕は混乱した。事務所を通さず星井にプレゼントを渡したことが、それほど
気に食わないって言いたいのか。けど、アイドルだって学生だし、人間なんだ。そのくらいの
付き合いがあったところで――。
 そう反論したかった僕の言葉を、男は一言で制した。

「これ以上、美希に近付くな。絶対、後悔することになる」
「……どういう事ですか!?」

 苛立ちが声になって現れてしまった。目の前の男は、それでも務めて冷静に応じる。

「事務所的にとか、仕事的にとか……そんな大人の事情なんかじゃない。
 本当に、これが、今起きている事実なのなら」

 そこまで言って、男はまた言葉を濁す。

「……とにかく、今は時間が無い。だから、後できちんと、必ず説明する。
 だが今は、事態を整理するための時間が欲しい。また今度、会いに来るよ」

 男はそれだけ言い残し、運転席まで足早に戻ると、車を急発進させていった。

『……どうなってやがる……!?』

 僕の中に、男の困惑した呟きが響く。冗談じゃない。それは、僕の台詞だ。


*****


 また今度会いに来る、と言った男からは、結局、数ヶ月も音沙汰がなかった。

 あれ以来、星井の姿はほとんど見かけていない。僕は、アイドルとしての星井を見ることが
多くなった。年末年始のテレビ番組雑誌に、ぶち抜きで載っていた星井の耳には、僕が贈った
ピアスが輝いていて、僕は一瞬、現実と非現実が混ざったような混乱を覚えた。

 テレビの向こうの世界。僕にとっての非現実も、誰かにとっては現実なんだ。僕は、星井と
知り合って、はじめてそれを意識した。それと同時に、難しい問題も抱えてしまっている。
 「星井美希」は僕にとって現実である。YESかNOか。僕がその問題に悩むようになったのも、
十一月の一件があった日からだ。男は、事態を整理させて欲しいと願い出た。それと同時に、
これ以上は星井に近付くな、とも。

 僕と星井の距離は縮まってはいない。星井の仕事を気にして、こちらからメールすることも
何だか躊躇われたし、かつてのように、頻繁に星井からメールが送られることもない。星井は
着実にトップアイドルに近付いている。それだけ、僕と星井の距離は離れていった。そこには、
ほんの僅かな疑問も挟む余地はなかった。

「良いんだ、これで」

 自分自身に言い聞かせたような呟きは、狭い部屋に淡く響く。春休みの初日を、そうやって
ぼんやり過ごしていた僕は、階下から妹の声を聞いて立ちあがった。僕に来客だと言う。
 客?誰だろう。誰かと遊ぶ約束の覚えもないし、今日は部活もない。僕はインターフォンの
相手に向かって、口を開いた。

「はい、もしもし?」
『やぁ。突然会いに来て、すまないね』

 その聞き覚えの有る声は、間違いなく、あの日、星井を乗せた車を運転していた男のものだ。
僕に、星井に近付くな、と警句を発した男。

「どうして、僕の家を……?」
『申し訳ないが、芸能事務所と言うところは、反社会的な面も有ってね』

 男が卑下た口調で言う。……なるほど、学校側から調べ出したのか。

『話さなきゃいけないことがあるんだ。ちょっと、時間を貰えないだろうか』

 それだけ聞いて、僕はインターフォンの受話器をフックに戻した。ジャケットを引ったくり、
急ぎ気味にスニーカーに足先を突っ込む。玄関のドアを開いた向こうには、どこか斜に構えた
男が立っていた。



 駅前のパーキングに車を停め、男は僕をとある店に連れ出した。大通りの商店街から外れた
場所にある、洒落た雰囲気のカフェだ。白と茶色を基調としたインテリアが揃えられた店内に、
客足はまばらだった。壁に備えつけられたテレビの中で、華やかな衣装の星井が歌っている。

「星井を登校させないようにしたのは、あなたですか?」

 どれほど多忙を極めるとは言え、あれからまったく学校に来なくなったのは、ちょっとした
異常事態と言ってもいい。いくら中学生でも、出席日数が足りなさすぎる。幾分責める口調に
なった僕を、男は一瞬だけ見咎めるような目で見た。

「鋭いな。その通りだよ」
「僕と星井の間には、友達以上の関係なんて無いんです」
「当たり前だ。それ以上進展されたら、今度は大人の事情として困る」

 そう言うと、男はからかうように笑った。気に入らない。

「きみに誤解を招かせたのは、俺の態度の問題だ。その点については謝る。申し訳ない」
「あ。いや、そう言うわけじゃ……」
「別に俺は、美希が幸せなら、きみと付き合っても文句はない。問題は、そこじゃないんだ」

 男の眉間に、深く皺が寄った。わからない。僕と星井の間には、何かもっと大きな問題が
あるんだろうか。男はグラスの水を景気付けのように一飲みし、口を開く。

「確か、きみは吹奏楽をやっていたね」
「はい」
「オーケストラにおいて、曲の基本的なデータを握っているのは、楽譜だ。
 それをどう表現するかは、指揮者のタクトが支配している。その認識は、正しいよな」

 僕は頷いた。

「録音された演奏なら、何度繰り返そうが同じ音楽になる。
 だが、生のオーケストラは違う。同じ楽譜であっても、指揮者のタクト次第で、
 その度に違った色彩を帯びる」
「それが、僕と星井のことに何の関係が?」

 ちょうど僕がその質問をしたタイミングで、僕らのテーブルにはコーヒーが運ばれてきた。
男は砂糖もミルクも入れず、黙って淹れたてを啜り上げる。

「この世界の指揮者は、俺なんだ」
「……はあ?」

 いや、ちょっと待て。この人は星井のプロデューサーか、なにかの人じゃなかったか?

「この世界を記述した楽譜が、ひとつ存在する。
 俺はその楽譜をどう演奏させるか、逐一タクトを振って曲を進める。
 タクトの振り方に応じて演奏は変化し、やがて曲はフィナーレを迎える」

 淡々と語られ混乱に陥った僕を見て、男は少し語り口を切った。

「たったひとつの楽譜を、オーケストラは違う色彩で演奏し続けている。
 俺が望む限りずっと。毎回がまるで初演であるかのように、音楽が始まるんだ。
 それが、この世界の、あらましなんだ」
「……わかりません」

 わからない。いやむしろ、わかってたまるか。
 僕が住む世界は、僕が生きている世界は、僕が思い悩んでいるこの世界は……!

「美希が、きみに逢ったことがあると言い出したのは、去年の四月だ。覚えているだろう?」

 「去年の四月」という言葉に反応した僕は、俯いていた顔を上げた。

「俺が知っている限り、そんなパートは一度も見たことがなかった。
 俺が把握している楽譜と、美希の楽譜の間に、違いが発生したことになる」

 男は、その『違い』を語った。

 星井がある日突然、クラシック音楽に興味を持ち始めたこと。
 クラスメイトの恋愛話で、仕事仲間と盛り上がっていたこと。
 九月辺りから、学校に行きたいと、何度も口に出すようになったこと。

「そんな形の楽譜は、今までに存在していない」

 溜まっていた違和感を吐き出すように、男が言った。

「俺の知らないところで、いつの間にか楽譜の一部が変わっていて、
 美希のパートと、ハーモニーとして整合する、別のパートが生じていた」
「そのパートが、僕、だと?」

 そうだ。と男は言った。僕らの間に、少し長い沈黙が訪れた。

「それじゃ、なんですか。僕は……存在しちゃいけない人間だった、って言うんですか?」
「そういうわけじゃない。ただ、美希と俺の知らないところで鳴っていたはずのパートが、
 主旋律ともハーモニーを奏でてしまった。だから美希も俺も、きみの存在を『意識』する」

 だから、と、男は前置きした。

「今の楽譜はそういう状態になっている、と言う認識はできた。
 この異常を、演奏を終えたタイミングで、切り離さなければいけない。
 走り出してしまった演奏の楽譜を、その場で書き直すことは、不可能だからね」

 ――切り離さなければ。

 その発言の意味を、僕はどう把握すれば良いのか解らなかった。男はボールペンを取り出し、
手帳のページを一枚破ると、そこに簡単な図を描き始めた。ぐるぐると回転しながら層を成す、
それはバネに似た螺旋だった。真上から見ると環だが、実際には層が積もっているのだという。

「環を一周してきた時点で、一度描かれた環の『記録』は失われる。
 そしてまた、新しい環を描き出す。楽譜の、先頭に戻るんだ」
「その、環の『記録』は……どこに行くんですか?」
「今までは単純に全て、俺の記憶だけに積もっていた、と言う認識だった。
 だが実際は、そうじゃなかった。
 もう一人、環の『記憶』を持っている可能性の有る人間が、この世界に存在している」

 男はなぜか、少し寂しそうな笑みを浮かべて、僕を指さした。


*****


 テーブルの上に置かれたコーヒーは、すでに苦いだけのぬるま湯になっているだろう。僕は
それに手を伸ばせないまま、蛇に睨まれた蛙のように、ぴくりとも動けなくなっていた。

「教えてくれないか。美希を見た気がする、その理由を。
 何でも構わない。ちょっとしたきっかけが、きみには有ったはずなんだ」
「突然そんなこと言われても、僕は、ただ……」

 僕は口ごもった。だって、急にそんなことを言われたって、思い出せるわけがないだろう。
忘れたんじゃなくて、知らないんだ。知らないことは思い出せない。それでも、僕は必死に、
星井との記憶をたどった。

 たしかに僕は、あの転校初日に、星井と以前逢った気がした。そんなはずはない、と頭から
否定した僕とは違い、星井はずっと、僕と逢ったことがある気がする、と言っていた。

『いっそ、カンちがいってことに、しちゃえばいいのに』

 そう言って笑っていた星井は、カン違いなんかじゃないと思ってたってことか。男の発言が
本当だとしたら、この世界は、何度も繰り返されていることになる。本来なら消えてなくなる
『記録』を、僕が『記憶』として携えていた、と。

 僕にとって星井は、あまりに眩しすぎる存在だった。僕を巻き込む活発さも、拗ねたときの
憎めなさも、真夏の太陽みたいな笑顔も、なにより自慢のブロンドの髪も――。

「……違う」

 違う。僕の知っていた星井は違う。何が?何が違うって言うんだ?僕は薄い記憶をたどる。
僕に残された星井の記憶と、始業式のときの違和感。――僕は、その差異を見つけ出す。 

「星井は……前に星井は、髪を切ってた。秋が来たころ、ショートになってた気がする」

 僕はその事実を覚えている。星井が髪を切ってきたときのショックを、確かに覚えている。
好きな人が出来たんだな。と応えながら、頭の中が真っ白になった日のことを覚えている。

「僕が、星井と以前逢った気がしたのは、その記憶のせい……?」

 男が、ゆっくりとため息をついた。やっぱりそうか、と半ばあきらめたような口調で。

「やっぱり?」
「見事に合致した。確かに、この一つ前の一年間……その周に、美希は、髪を切っている」
「なぜ?」
「……詳しくは、明かせない。と言うか、あまり話したくない。
 得られた結果は良かったけれど、その後に生じる過程は、異なる意味で俺を苦しめるんだ」

 男は苦笑いを浮かべる。話したくないことを無理に問い質すのも、僕の主義に反した。

「そのことは、良いです。でも、あなたには一つだけ、はっきりさせて貰わなきゃいけない」
「なんだい?」

 テーブルの下で、僕は膝の上に拳を固く握る。

「星井に近付くなって、後悔するって、どういう意味ですか?」

 怒りとも恐怖とも付かない感情が胸に込み上げて、僕の声は自然と震えがかかっていた。

「そうか……。もう分かったと思ったんだけどな」

 男は、先ほど書いた図をテーブルの真ん中に引き戻した。

「さっきも言ったように、この環が閉じると言うことは、存在した時間の喪失と等しい。
 きみはもう、この時間が何度も環を描いているのを、認識したはずだ。
 その中で『美希が髪を切った』と言う事実を、俺ときみは共有できている。
 現在の環よりも、以前の世界の出来事をね」

 説明しながら、男は三色ボールペンのインクを、黒から赤に切り変えた。

「つまり、この環が閉じて、次の『新しい環』が始まるときに、
 今の環で起きたことを、きみが覚えている可能性がある。それは、とても危険なことだ」
「どうしてですか?」
「きみは『ずっと中学二年生のまま』で居続けたいか?
 何度も何度も、記憶を持ったまま、永久に同じカリキュラムを繰り返すことになる。
 精神衛生上、あまり芳しい結果には、ならないだろうと思うがね」

 この男が言うことならば、確かにそうなのかもしれない。……だけど。……だけど僕は……!

「だから、きみにとっての時間の流れを、環から一本の線に戻す。
 いや、強制的に、戻されてしまうはずだ」
「それって……」
「きみは、この世界から出られるんだ。世界の環に閉じ込められている、俺とは違う。
 きみの喪失を埋めるように、何も知らないきみが美希と巡り逢う。それだけの事だ」

 男は断言する。そこに、冗談や脅しの色は無かった。僕の反論なんて、綿埃より軽かった。

「きみと出逢えて、美希はとても喜んでいた。
 誕生日プレゼントも、何より気に入っていた様子だったよ」

 そんな言葉は、僕にとってなんの慰めにもならなかった。星井は、とっくの前から学校には
来なくなっていたし、携帯の着メロだって、すっかり黙り込んでしまっていたからだ。

 僕は、星井が泣いた理由を悟った。星井も、今の僕と同じ不安を感じていたんだ。

 星井は、もしかしたら感覚的に、世界の流れを感じとっていたのかもしれない。だからこそ、
僕と過ごした記録が失われて、もう一度、ゼロからスタートするだけのリピート記号に対して、
星井は、漠然とした不安を抱えていたんだ。

 僕は言葉を押し殺した。僕がずっと捜していた不安の答えを、確かに男は持ってきてくれた。
それと引き換えに、僕と星井の距離は、もはや永遠とか無限に切り替わったも同然だった。
 僕の恋を応援してくれた星井も、先輩に認められたいんだと顔を輝かせていた星井も、僕の
パートの楽譜が白紙に戻れば、二度と会うことはできない。
 王女様が新聞記者とヴェスパに乗って街をクルーズすることは、もう起こり得ないんだ。

「最後のクライマックスを迎えれば、曲はまた冒頭へと戻る。世界の環が、再び繋がるんだ。
 もうじき一年が経過する。美希が、最後のライブを終えたら」

 その時が本当のお別れだ。と、男は言った。

「僕が……僕が切り離されたら、星井はどうなるんですか……?」
「何も変わらん。きみのパートの楽譜が元に戻って、俺の振るタクトに、世界が呼応する。
 元に戻った世界で、美希が、俺との記憶を全て忘れてしまうのと、同じことだ」

 その言葉に、僕はハッとして顔を上げた。そんな僕に構わず、男は淡々と言葉を続ける。

「それは、同時に俺が望んでいる世界なんだ。俺が美希と、何度も、初めて出逢い、
 初めての一年間を、何度も過ごす。その記憶は全て、最終的に俺のものなんだ。だから――」

 男は口を閉ざした。僕は次の言葉を待つ。やがて彼は、意を決したように切り出した。

「きみはもう、この時間の環には戻らない。同じ一年ではない、その先に進めるんだ。
 本来時間と言うものは、二度と戻れないものだからね。
 そしてそこには、きみが知っている美希も、俺も、存在していないだろう」

 僕が感じた孤独と、男が積み重ねる孤独では、一体どちらが大きいのだろう。男は僕の不安を
汲んだような声で、静かに語りかけた。

「……でも、それは決してコピーや偽物なんかじゃない。間違いなく『きみの世界』なんだよ」

 真っ向から良く見ると、男は僕に似た色の目をしていた。消えるのは僕で、残されるのは彼。
だけど僕たちは、同時に「星井」を失ってしまうんだってことに、僕はようやく気づいた。

「美希から、渡すように頼まれていてな。もし良かったら、見に来てやってくれないか」

 伝票の代わりに一枚の紙切れを置いて、男は店を出ていった。それが星井のラストライブの
チケットだと解っても、僕はその場から動けなかった。

 潮が引くように、月が細くなるように、僕と星井の関係は、断ち切られようとしていた。


*****


 男から渡されたチケットは、プラチナ級の席だった。だけど僕は、星井のラストライブに、
向かえなかった。今日は、僕が「世界から弾かれる日」だと、男は宣告した。
 星井に逢ったのが偶然だったとしたら、僕は、なんのために、記憶を思い出したんだろう。
思い出せたことに、繰り返される環に気づけたことに、意味なんてあったんだろうか。

 男は「この世界に閉じ込められた」と言った。記憶だけが積もる一年間。何もかもがゼロに
もどる一年間。そんな世界から見たら、環を抜ける「僕」はどんな風に映ったのだろう。

 世界の環が閉じる。全ての記録は白紙になり、来たるべき未来の記憶に全てを引きわたす。
本来ならそうなるはずだった、僕の「記憶」に、一度だけ生まれたほころびが、世界の有様を
変えてしまっていたなんて、思いも寄るはずがなく。

 ベッドの上で軽く寝返りを打つ。星井は、今ごろラストライブの最中なんだろうか。天井を
眺めながら、僕は悶々としていた。
 その時。僕の携帯が鳴った。あのメロディが、僕と星井を繋げる。反射的にベッドの上から
携帯を奪いとって、もどかしい手つきで、蓋を開いた。

 ずっと連絡がなかった星井からのメールは、たった一行だけ。
 そのタイトルと本文だけで、僕は、星井からのメッセージを、全て悟ってしまった。

『Sub:お願い』

『ミキのこと、忘れないでね。』

 僕は何度も、その本文をくりかえし眺めた。

 初めて逢った時の星井が浮かんだ。
 覚えのあるメロディに喜んだ星井が浮かんだ。
 本当の恋を知らないと告げた星井が浮かんで、僕は……。

 閉じた携帯を手に、勢いよく振りかぶった。

 ――それはな、星井。

「さようなら、って言ってんのと同じなんだよっ!!」

 僕の手から離れた携帯は、壁に跳ね返って角を削った。その衝撃で、内部の電池が吹っ飛ぶ。
剥がれた電池カバーを拾う元気もなく、僕はその場に膝をついた。星井は、もう戻ってこない。
 今日のライブが『環』の最後だと、男は語った。再び繰り返される音楽、リピートの記号。
僕は、たった一度だけ音を鳴らせた演奏者で。もう二度と、星井に重なる音は鳴らせない。

 僕は頭を抱えこんだ。分かっていたんだ、こうなることは前に知らされていたんだ。だから
彼はあれだけ警告していたんじゃないか。絶対後悔することになる、と。

 本当に星井に伝えなきゃいけなかった一言は、気持ちは、もう伝える手段を持っていない。
以前からうすうす、この事実を察せていたからこそ、星井は、慎重に最後の言葉を選んだんだ。
さようならと言うよりも、もっと温かいものを。

 僕と星井の間にはもう、距離と呼べるものさえ存在しない。
 僕はもうすぐ、世界から切り離されてしまうのだから。

 ……ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうっ!!
 どうして……どうして最後に……最後になって後になって、どうしようもなくなってから
僕は気付いたりするんだ!?

 きっかけは小さなカン違いだった。今にして思えば、あれが運命だったんだ。

『キミ、二年? 三年? ミキは二年だよ!』
『ああ。僕も、同じ――』

 あのとき感じたデジャブは、間違いではなかった。でも僕は只のカン違いだと思っていた。
僕と星井は、クラスメイトでしかなかった。星井はたしかに僕の恋を応援してくれたけれど、
それは本意だったのだろうかと、今になって省みる。
 ……わからない。けど、これだけは確実に言える。九月からずっと、僕の気持ちは星井に
向き続けていた。結論はそこから導き出せる。答えは、とっくの前から持っていたのに。

 ……そうじゃない。

 仮に、僕の言う結論を、星井にぶつけたとして。星井が、それを受け入れてくれたとして。
もしもそこまで、お互いの距離を近づけられたとしても。この日を境に、僕らの関係は必ず、
リセットされてしまうのだ。
 星井はまた、単純に僕のことを忘れてしまうだけかも知れない。けど僕は、その先もずっと、
時間空間的に逢うことができない星井の影を、引きずらなきゃいけないんだ。

「……言っても言わなくても。出会った時点で決まっている別れなんて」

 『絶対後悔することになる』。そう言ったあの男の言葉が、今なら痛いほどに分かる。

「……あれ?」

 外れた携帯の電池カバーを捜していた僕は、落ちていたそれに気付けなかった理由を知った。
本来の色が、消されてしまっている。電池カバーの裏側に、シールが貼られていたからだ。

 それは、星井が貼ったプリクラだった。いつの間に、と思ったが、僕も星井と同じくらい、
いねむりだってしたし、隙だってたくさんあった筈なのだ。

 今よりちょっと昔の記憶。僕が星井に、あの曲を教えてあげたころの記録。遠い過去から、
星井が、僕だけに伝えてきたメッセージ。
 プリクラの中の星井は、事務所の先輩と仲良さそうに並んでピースサインをしていた。僕は
それを見て、泣きそうになってしまう。泣きそうになりながら、笑ってしまう。

『ミキもトップアイドルになるの!』

 プリクラに書かれた筆致は、星井のものだった。すでにトップアイドルだった先輩の隣で、
まだトップアイドルではなかったころの星井が笑っている。僕は、今までに星井から届いた
メールを思い出していた。星井と過ごした記憶なら、幾らでも沸いてきた。

 “千早さんにホメられたの!”
 “オーディションに受かったんだよ☆”
 “ミキね、絶対トップアイドルになるんだ!”

004

 ――なれたよ、星井。

   でも僕は……もう少し、学校で逢いたかったよ。


 時計の針が時を刻み、僕は静かに「世界」から切り離されていった。


*****


 始業式の朝。廊下で三年のクラス割りを見上げていた僕は、信じられないものを見た。

「星井……!?」

 星井がいる。僕と同じクラスに。貼り出されていた名簿を何度も繰り返し眺めた僕は、次の
瞬間、周囲の何もかもを振りきって、廊下を蹴ってクラスに直行していた。
 僕はてっきり、星井は居なくなるものだと思っていた。そんなのは只の思い違いだったんだ。
世界は何も変わってなかった。星井は消えてなんかいなかったし、僕はもう一度星井に逢える。
はやる鼓動を無理やり押さえ、階段を一段飛ばしで駆けあがった。

 勢いよく教室に飛びこんで、ぐるりと中を見渡した。見覚えのある髪を捜す。

「おはよう、星井!」
 
 僕は星井に話しかける。だけど、僕が覚えている星井は、そこに居なかった。

「ラストライブ?……ライブって、なんの話?」
「えっ」

 会話を重ねるうち、僕は、彼女が星井とは違うことに気づいた。

「ミキ、確かにアイドルだけど、まだデビューはしてないの」

 ブロンドの髪を内側にゆるく巻いた彼女は、はにかむように笑った。まったくの別人だった。
僕を見ても、クラスメイト以上の認識はなくて。僕と星井の間の繋がりは、全て消滅していた。
 あのときの星井は、もう居ない。僕と同じ、中学二年生だと、胸を張った星井は居なかった。
星井は、僕のことなんて何ひとつ覚えていなかった。僕はそれが悲しくて、上手く笑えなくて、
窓の外ばかり向いてしまう。
 これが『僕の世界』なんだと諭されても。こんな世界なんて、見たくもなかった。



 始業式を終えても、まだ落ち込んでいた僕は、放課後の教室で、なかなか席を立てずにいた。
部活の招集時間を迎えて、携帯がアラームを鳴らす。僕はそれを何気なく止めようとして、

「あれ?」

 僕のポケットで鳴った携帯を、彼女がじっと見ていることに気づいた。

「……どうかした?」
「ミキね、その曲、どこかで聴いた気がしたの」

 アラームを止めようとした、僕の指が止まる。

「でも、覚えてないの。どこで聴いたんだろ??」

 彼女は、何度も首を傾げていた。僕はそれを、どう伝えたらいいものか、戸惑ってしまう。
彼女は、全てを忘れたわけではなかった。環から外れても、星井は確かにここにいる。僕の
ことを忘れていても、僕と星井を繋げた音楽を、彼女は覚えていてくれた。

「星井は、こういう音楽は苦手そうだな」

 あの時と同じ言葉に、彼女はなにか言いたそうな顔になった。僕はその返答を知っている。
そこまで考えて、僕が表情をほころばせていると、彼女から意外な言葉が返ってきた。

「ね。楽器持ってるんでしょ? ミキ、今の曲が聴きたいな」

 言われて、僕は足元のケースを見下ろす。音痴な僕と相棒は、星井がいなくなってからも
ずっと、あの曲を演奏し続けていた。

「教室で吹いたりして、怒られないかな?」
「ミキは、ちっとも怒らないよ」

 僕は楽器ケースを開けると、トランペットの吹き口を取り出して、軽く何度か鳴らした。
楽器と接続し、静かにあのメロディを紡ぐ。僕と星井の間で、何度も行き来したメロディ。

 電子音ではない、生きたメロディが、僕と彼女の間に流れた。
 僕が放つ『歌』を聴いて、彼女は、あの無邪気な表情を浮かべる。

「ミキ、この曲好きなの。どこで聴いたのか、よく思い出せないけど」

 彼女の声が僕の間近で弾け、それは僕の芯と強く共鳴する。

「この曲、逢ったことある気がする!」

 その返事に、僕は視線だけで笑ってみせる。なにか応えたくて仕方がなかったのだけれど、
演奏を止めるわけにはいかなかった。僕は二度と逢えない星井にメッセージを送り、彼女が、
僕の目の前で、それを受け取ってくれていたのだから。

 時間差みたいなものなんだ。星井から送られたメッセージは、世界を越えて、一年を飛んで、
僕に届いて、僕はいま、彼女にメッセージを届けようとしている。

 幾度も積み重ねられた一年が、星井からのメッセージが、環を出た僕の中には残されている。
僕はそれを覚えている。僕はそれを歌う事ができる。

 いつかそれは僕の中で、本当の言葉になるのかも知れない。彼女もまた、アイドルになって
しまうのかも知れない。それでも構わない。僕は星井を、もう一度、世界に引き寄せることが
出来たのだから。

 時が経ち、お互いを見知り合い、僕と彼女がもう一度あの距離になったら。
 僕は彼女に伝えなきゃいけないことが有るんだ。

 ただ一言。

 「好きだ」と。 


                            (おわり)
00:30  |  美希  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

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